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くすぐりフェチのお嬢様と執事


 扉の前で、立ち尽くすこと早三分。
 悩んでいても仕方がないと、頭では理解している。けれど、手がノックしようとしない。足が、前に進まない。白い手袋に包まれた右手が、何度も宙で止まる。握りしめては開き、また握りしめる。
 今までならば──あの日の前ならば、躊躇することなく伺えたはずなのに。

『屋敷に戻ったら、私の部屋に来るように』

 外出先のお嬢様をお迎えに上がったとき、車内でそう耳打ちされた。あの無邪気な声が頭の中でリフレインする度、顔に熱が集中していくようだ。まるで条件反射のように。
 深いため息が漏れた。廊下の静寂に、その音だけがやけに大きく響く。
 また、あの絶望を味わうのか?
 彼女の『理想のくすぐりシチュエーション』を、再現させられるのか? そもそも、理想のくすぐりシチュエーションとは一体何なのだ? どれほどのバリエーションがある?
 どうにもならない後悔が、波のように襲いかかってくる。
 あの日、自分は全ての選択肢を間違えたのだ。お嬢様の悩みを聞いた時点で、旦那様に報告すべきだった。いや、もっと遡れば、最初から話を聞かなければ良かったのだ。
 けれど、もう遅い。
 拘束具に縛られ、無様に笑い転げ、涙と涎を垂らしながら許しを乞うた、あの屈辱的な記憶。それが脳裏に鮮明に蘇る。鼠径部に這う冷たい指先、剥き出しになった腋を執拗にくすぐられた感触──。ぞくり、と背筋を何かが駆け上がった。
 これは恐怖なのか? それとも……。
 自分の心の奥底に眠る、認めたくない感情に気づきかけて、慌てて思考を打ち切る。
 しかし、いつまでも大の男が、旦那様が溺愛する娘の部屋の前でウロウロしているわけにはいかない。他の使用人に見られたら、確実に不審がられる。いや、もっと悪い憶測を立てられるかもしれない。
 覚悟を決めるしかない。
 深く息を吸い、ゆっくりと吐く。表情を執事としての冷静なものに戻す。鏡がなくとも、長年の訓練で完璧にできる。
 恐る恐る、扉を手の甲で四回叩いた。規則正しいノックの音が、静かな廊下に響く。
 一秒、二秒、三秒──。心臓の鼓動が、やけに大きく聞こえた。
「どうぞ」
 聞き慣れた、彼女の声。
 ドアノブに手をかける。冷たい金属の感触が、汗ばんだ手のひらに伝わってくる。
 ゆっくりと扉を開け、部屋へと足を踏み入れる。薄暗い室内を見渡すとお嬢様は窓辺に立ち、外を眺めていた。
 すでに何かしら……拘束具などの類を、ベッドの上に用意しているものだと考えていた。前回のように、黒革が待ち構えているのではないかと。
 だから、少し拍子抜けしてしまう。
 いつもと変わらない、静かな令嬢の部屋。整然と並んだ本棚、天蓋付きのベッド、アンティークの調度品。どこにも、あの日の痕跡は見当たらない。
 お嬢様の背後まで音を立てないように近づく。
「お待たせして申し訳ございません」
 できるだけ平静を装い、いつも通りの声で告げる。振り返った彼女は、穏やかな微笑みを浮かべていた。
「待ってなんかないわ。来てくれてありがとう」
 柔らかな声。優しい表情。
 その姿に、あの日の悪魔を感じさせる要素は一つもなかった。無邪気に笑いながら、容赦なく腋をくすぐり続けた、あの顔はどこにもない。
 むしろ、あれは夢だったのではないだろうか。現実離れした悪夢。そんな風にさえ思えてくる。
「ご用件は?」
 彼女は一拍置いて答えた。
「私、お馬に乗りたいの」
 予想だにしないお願いに、すぐに言葉が出なかった。
「……あいにくの天気ですので」
 窓の外に目をやる。外は雷雨だった。激しく降りしきる雨が、窓ガラスを叩いている。雷鳴も遠くで聞こえる。とても乗馬などできる天候ではない。お嬢様も、それは理解しているはずだ。
「でも、とてもお馬に乗りたいの。今日乗りたいの」
 甘えるような声で、お嬢様がすっと近づいてきた。距離が一気に縮まる。
 私の胸元に、そっと寄りかかってきた。柔らかな髪の香りが鼻をくすぐる。体温が制服越しに伝わってくる。心臓の鼓動が跳ね上がるのを感じた。細い指先が、ネクタイの結び目をゆっくりとなぞる。
「……なってくれる?」
 上目遣いで見つめられる。潤んだ瞳が、こちらを捉えて離さない。
 私が? 馬になる?
 一体、何を言っているのだろう。理解が追いつかず、返答ができずにいると、お嬢様はさらに身体を近づけてきた。唇が、首元に触れそうなほど近い。
 そして、囁くように、けれど明確に言った。
「それとも、前と同じがいい?」
 その言葉に、身体がビクリと震えた。
 あの日の記憶が再び甦った。手首足首を抑える冷たい拘束具、微かに口角を上げたお嬢様、ねちっこく弱点を弄くる指先──。やはり、あれは現実だったのだな。
 唾を飲む。いつの間にか喉がカラカラだ。
「……承知いたしました」
 震えそうになる声を必死で抑えた。

 ふかふかのカーペットに、四つん這いになる。両手と両膝が、柔らかな毛足に沈み込む。
「いい子ねー、よしよし」
 頭上から、のどかな声が降ってくる。お嬢様を見上げるときがくるとは、考えもしなかった。
 彼女の手が、私の頭をゆっくりと撫でた。まるで本当に動物をあやすように、優しく。それは、馬に乗る前に行う触れ合いそのもので。
 私は今執事ではないのだと、改めて認識させられる。この瞬間、私は彼女の『お馬』なのだ。
 背中に、体重がかかった。腰のあたりに重みが乗る。予想よりも軽いそれに、思わず別の思考が頭をよぎる。
 令嬢としての責務が負荷になってはいないだろうか。睡眠は問題なく取れているのだろうか。食事はきちんと召し上がっているのだろうか。執事としての、職業的な不安がよぎる。
 いや、待て。こんなことをしている時点で、健康的には問題なさそうだろう。むしろ、有り余るほどの活力に溢れているようにさえ見える。
「よろしくね」
 肩甲骨のあたりを、ぽんぽんと二度叩かれた。動き出せ、ということだろうか。
 私は、ゆっくりと一歩を踏み出した。右手、左膝、左手、右膝。四つん這いでの歩行は、想像以上にバランスが難しい。
 しばらくカーペットの上を這っていると──ふと、思い出したことがある。
 確か、お嬢様が小学生になったばかりの頃。こうして、お馬さんごっこをしたことがあった。
 あの日は台風だった。激しい雨が窓を叩き、遠くで雷鳴が轟いていた。本来は外出の予定があったはずだが、悪天候でそれが中止になったのだ。
 幼き彼女は、とても不満そうで。窓の外を見つめて、小さく頬を膨らませていた。少しでも笑ってもらおうと、提案したのだと思う。
『お馬さんごっこしませんか』
 あの時も、こうして四つん這いになり、小さな身体を背中に乗せて、部屋を歩き回った。彼女は、キャッキャッと無邪気に笑っていた。
『もっともっと!』
 なんて、声を上げながら。随分大きくなられたものだな──。
 しみじみと、そんな感慨が胸に湧き上がる。
「ひっ!?」
 身体が硬直する。
 お嬢様の両人差し指が腋の窪みをピンポイントで突いてきた。
 完全に油断していた。過去の思い出に浸っていたせいで、警戒が緩んでいた。
「可愛らしい鳴き声ね」
 頭上から穏やかな口調で、明らかに小馬鹿にするような声が降ってくる。楽しげな響きが、そこにあった。
 まずい。冷や汗が背中を伝う。
 この体勢では、腋を守ることも、隠すこともできない。両腕で身体を支えている以上、腋は完全に無防備だ。露出している。
 くすぐりから逃れようと、不用意に身体を揺らせば、彼女を振り落としかねない。万が一、怪我などされたら……。執事として、絶対に避けなければならない事態だ。
 背中を、ぽんぽんと二度叩かれる。
「さあ」
 その一言が、命令であることは明白だった。
 進めばくすぐられる。拒否してもくすぐられる。どちらを選んでも結果は同じ。私に逃げ道はない。
 ならば。私は、進むことを決めた。
 確かに、突かれるのも苦しくはある。けれど、前回のように身体の自由を完全に封じられ、無防備な状態で徹底的にくすぐられるほうが、はるかに苦痛だ。この体勢のほうがまだ良い。そう、自分に言い聞かせる。
 一歩。右腕を前に出す。
 その瞬間、開かれた腋に向かって、お嬢様の人差し指がつんつんと触れてきた。軽やかに、しかし的確に、敏感な部分を刺激する。
「んんっ……!!」
 思わず頭を垂れる。歯を食いしばり、唇を固く結ぶ。歩みが止まってしまう。
 大笑いするほどでもない。けれど、確実に体力を削られていく。一突き一突きが、じわじわと精神を蝕んでいく。
 息を整えて、次の一歩。左腕を前に出す。
「ふひっ……!!」
 また、腋を突かれる。
 その後も一歩進むたびに、右、左、右、左と、交互に腋を責められ続けた。カーペットの上を這う音と、短く漏れる声だけが、静かな部屋に響く。
「なんだか、スピードが遅いような気がするのだけど?」
 お嬢様が、平然と言い放った。まるで、自分には非がないと言わんばかりの、本当に不思議そうな口調だ。
 遅いのは当然だろう! 一歩進むたびに腋を突かれているのだから!
 そう叫びたい衝動を、必死で押し殺す。
 だが、幸いにも慣れというものは来るもので。最初の一突きに比べれば、刺激が弱く感じるようになってきた。規則的な責めであることも、こちらにとって有利に働いた。
 口元は、どうしても緩んでしまう。けれど、笑い声が漏れることはなくなった。
 これで満足されたなら──。
 そんな甘い希望が、胸に芽生えかける。もしかしたら、もうすぐ終わるのではないか。お嬢様も飽きて、解放してくれるのではないか。
 その願望は、すぐさま無残に打ち砕かれた。
「うひっ!? くっ……くひひっ……!!」
 中指が加わった。今まで、ツン、ツンと突っつく攻撃だったのが、腋の窪みを優しく引っ搔くような動きに変わった。
 人差し指と中指、二本の指先が、くりくりと円を描くように肌の上を滑る。シャツ越しでも、一本一本の指の動きがはっきりと感じられる。
 慣れなど、まったく意味がなかった。
「あら。とても震えているわ」
 頭上から、楽しげな声が降ってくる。
 くすぐったさに、身体全体が小刻みに揺れる。もう、制御できない。できることなら振り落としたい。この責めから逃れるために、思い切り身体を揺さぶって。
「んひひっ……そこはっ、くくっ、んんっ……ひっ!?」
 だが。
 背中に乗られているのは、令嬢だ。私が仕える、守るべきお相手なのだ。執事として、絶対に傷つけてはならない存在。
 ぎりぎりのところで身体を押さえつけている。私の理性が必死に仕事をしているうちに、もうやめてくれ。お願いだから──。
 三度目の、背中ポンポン。
 動けない。いや、動きたくなかった。
 部屋に重い沈黙が訪れた。外は未だに雨が激しく降り続け、雷が時々部屋中を照らしている。けれど、この部屋の中だけは不気味なほど静かだった。
「なぞるほうが好きなのね?」
 囁くような声。
 両腋に、人差し指と中指が深々と差し込まれた。窪みの中央──刺激に弱い場所を、細かく、速く動かされる。なにかをほじくるように。
「ふっはは!! やっ……、くっははは!?」
 堪えていたものが、一気に決壊した。
 こめかみから、汗が滴り落ちる。シャツの襟元も、じっとりと湿っている。
 けれど、指先は止まらない。
 刺激から逃れようと、頭を思い切り左右に振る。が、まったく意味をなさない。腋は、どう動いても無防備なままだ。
「ま、待っ……ぁっははははは!! くっ、ぐははっ……うへへっ!?」
 気づいた時には四つん這いの体勢を、もう維持できていなかった。
「きゃっ」
 お嬢様の小さな悲鳴が聞こえた。
 バランスを崩し、そのまま床にへたり込む。両手は頭上に伸びたまま、膝は深く折り曲げられ──正座に近い、まるで降参のポーズのような体勢。
 背中には、まだお嬢様の重みが残っている。跨ったままのようだ。
「おっ、お怪我はっ、ありません、か……」
 荒い息の合間に、必死で言葉を絞り出す。それが、執事としての最後の矜持だった。
「え、ええ、大丈夫よ」
 普段より少し落ち着きのない声だが、痛めたところはないようだ。
 良かった……。
「……ぷっ、はははは!! お、おじょ、ぅっはははは!! おじょうさまぁっはははは!!」
 お嬢様の指先が、二の腕と腋の境目に触れてきた。カリカリと優しく、けれどお仕置きと言わんばかりに引っ掻かれる。
 堪らず、腕を締めようとする。腋を守ろうと、本能的に。
 けれど──。
「ひゃははははっ!! もうしわけっ、ひひっ!? ございません……ぇへへへへ! っはははは!!」
 私の二の腕の内側に、ちょうどお嬢様の膝が当たる。腕を下ろそうとしても邪魔をする、絶妙な位置だ。おそらく偶然じゃない、計算された体勢に違いない。
「ねぇ」
 くすぐりを止めることなく、彼女は囁いた。
「お馬さんが、主人を乗せたまま倒れ込んだら……貴方はどうする?」
 どうしてそんなことを聞かれるのか。
 くすぐったさでいっぱいの頭では、処理しきれない。考えられない。
「ぶはっ!? あっははははは!! それはっ……ひゃはは!? うっははははっ!!」
「貴方だったら、そのお馬さんをどうするの?」
 繰り返される問い。
 言わせたいことが何なのか、分かった気がする。けれど、それは──。
「こちょこちょー」
 抵抗する自分を見透かしたように、彼女は無邪気に囁いた。
 十本の指先が、最も刺激に弱い──腋の窪みの下方、胸の付け根との境目に移動した。
「ひゃっははは!? そこだめっ……ぇへへへ!! むりっ、むりぃっひひひひ!! ふひひ……っははは!! おねがいっ……!!」
 敬語を使える余裕すら、もうなかった。
 口の端から顎へと、涎が伝い落ちる。目尻から涙が溢れ続け、視界が滲み始める。呼吸が追いつかない。肺が悲鳴を上げている。
「ぎゃはははっ!! くすぐったいっ……ぃっひひひ!! うっはははは!! もう、おゆるしを……うひっ、ひゃっははははは!!」
 いつか必ず、他の使用人がお嬢様を呼びに来る。夕食の時間や、旦那様からの伝言で。
 だから、永遠じゃない。いつかは、終わる。
 だが──。
 死ぬほどくすぐったい箇所を、そのいつかが来るまで、延々とくすぐられ続けることに耐えられる精神力など、もう残っていなかった。
「しつけっ、ぇへへへ!! しつけが必要ですぅううっ!!! あっはははははっ!!」
 力の限り叫んだ。
 指先が止まる。つまり正解だったのだ。
「……っはぁ、はぁ……ゲホッ、ゲホッ……」
 激しく咳き込む。喉が焼けるように痛い。息を吸おうとしても、うまく吸えない。
「そうね」
 お嬢様の声が満足げに響いた。
「躾、が必要ね」
 そっと囁かれ、吐息が耳朶に触れる。背筋が強く震えた。
 恐怖なのか、それとも──。
「私のお馬さん」
 ああ。一体、どんな『躾』が待っているのだろうか。
 絶望と、ほんの少しだけ、ゾクゾクするような、名前のつけられない欲が、脳内を支配していた。
 もう、雨は止んでいた。
👏パチパチ

お嬢様と執事