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漫画家とアシスタントにくすぐられる担当さん


 チャイムの音が静かな室内に響いた。先生は液晶タブレットのペンを持つ手を止め、画面を見つめたまま、深いため息をついた。
「来たか……」
「わたし、出ます!」
 わたしは椅子から勢いよく立ち上がり、スリッパの音を立てながら小走りで玄関へと向かった。途中、備え付けの全身鏡の前で立ち止まる。鏡に映る自分を上から下まで素早く確認。洋服はよし、乱れはない。前髪が少し乱れていたので、指先で整える。ゆっくり息を吸って、吐いて。それから、ドアノブに手をかけた。
「こんにちはー」
 できる限りの明るい声で、ドアを開ける。
「お世話になります」
 目の前には、紺のスーツに身を包んだ担当さんが立っていた。いつもの深々とした会釈。相変わらずの仏頂面だ。表情に柔らかさのかけらもない。まあ、理由は分かるけれど。
「先生は?」
 短い問いかけ。挨拶もそこそこに、本題だ。
「奥に……」
 わたしが言い終わる前に、彼はもう靴を脱ぎ、揃えている。
「失礼します」
 有無を言わせない勢いで、彼は廊下を抜け、作業部屋へと足を運んでいった。わたしは慌てて玄関の鍵をかけると、小走りで後を追った。
「お世話になります」
 部屋に入ると、二人は見つめ合い──いや、睨み合っていた。
「わざわざすみませんねー、来てもらってー」
「進捗はいかがですか?」
 担当さんの声のトーンが、一段低くなる。
「描けるときは描けるし、描けないときは描けませんねー」
 先生は椅子に座ったまま、くるくると回転しながら答えた。その表情には、焦りのかけらもない。
「それに、まだ締切まで三日あるかと思うのですが?」
 先生がわざとらしく首を傾げる。無邪気な表情を装っているが、明らかに挑発だ。
「ええ。問題なくご提出いただける先生なら、こちらもわざわざ出向くまででもないのですが」
 担当さんが口角を上げた。笑みを作っているつもりなのだろう。けれど、その表情は笑顔とは程遠い。引きつった頬、冷たい目。どう見ても、怒りを必死に押し殺しているようにしか見えない。
 無理もない。先生は締切当日に『探さないでください』と置き手紙を残して逃亡したり、担当さんが訪ねてきた途端に『持病が……』と口から血糊を吐いて倒れこんだり──過去の所業を思い出すだけで、わたしまで胃が痛くなる。信用性があるとは、到底言い難い。
「……ちなみに、進捗のほうは?」
「まー、ほぼできてるっちゃ、できてますよ? でもねー」
 先生は椅子の背もたれに体重を預け、雑に結んでいる髪を指先で弄びながら、ニヤッと笑った。その笑みには、なぜだか余裕が滲んでいる。
「メインシーンに納得がいかないんですよ。作者が納得できないものを、読者に読ませるわけにはいかない。そうでしょ?」
 正論のように聞こえるが、これは完全に逃げ口上だ。
 彼は無言で、じろりと先生を睨みつけた。その視線には、氷のような冷たさがある。わたしだったら、体が硬直して、言葉も出なくなりそうなものを先生はどこ吹く風。むしろニコニコしている。
「……なぜ、納得がいかないのですか?」
 担当さんの忍耐が限界に近づいているのが、空気でわかる。
「リアリティがないんですよねー」
 先生はタブレットを突きながら、のんびりと答えた。
「誰か再現してくれたらなー、できれば男性がいいなー、でもそんな都合のいい人いないよなー」
 言葉の端々に、わざとらしい棒読み感。チラリと、先生の視線が担当さんの方へ向けられる。
 わたしは息を呑んだ。
 まさか。
「僭越ながら、私の仕事は担当編集です。サポートはさせていただきますが、先生個人のお遊びには……」
「そういえばさー」
 先生がこちらに目を向ける。突然のことで返事ができなかった私を置いて、スマホを操作し始めた。
「面白い写真があんのよー、忘年会で担当さんがめいどふく……」
 後半部分は上手く聞き取れなかった。
「分かりました!! 引き受けましょう!!」
 担当さんの声が、部屋中に響いたからだ。


 わたしたちはゲストルームに移動した。もっと言えば、わたしの仮眠室である。狭い部屋に、シンプルなシングルベッドが一つ。
「ここ、寝転がってもらえます?」
 先生が指示を出す。普段はここで休憩をとっているのだが、まさかこんな使われ方をするとは。
 大丈夫かな、変な匂いだと思われないかな。シミとかないよね。いや、というか彼の匂いがベッドに残ったり──。
「どういうおつもりで……?」
 担当さんの凄んだ声で、わたしははっと我に返った。
 彼は自身が付けていたネクタイで、両手首を拘束されている。紺と銀のストライプ柄のネクタイが、ベッドの柵にしっかりと結ばれていた。両腕がまっすぐ上に伸びた状態──Iの字で、身動きがとれない。スーツ姿のまま拘束されている光景は、どこか非現実的だった。
 わたしの意識が飛んでいた僅かな時間で、ここまでセッティングされていたなんて。
「今回の話は、二股男に罰を下す話です」
 先生は、いつもの軽い口調とは打って変わって、冷静に話を進めた。漫画を描くために必要なことに関しては、常にストイックな人なのだ。
「……暴力、ですか?」
 担当さんの声に、わずかな緊張が滲む。
「まさかー。そんなことしたら警察沙汰でしょう」
 先生はあっけらかんと笑った。
 彼は、ほんの少しだけホッとした様子だった。肩の力が抜けるのが見える。いや、さすがの先生でもそんなバイオレンスなことはしない……とは言い切れないか。過去の奇行を思い出すと、確信が持てない。
 今回のネームでは、本命のレイカと浮気相手のユズキが二股男に逆襲をする。その復讐の方法って──。
「身体に傷はつけない。けど、相手に苦しい思いをさせられる」
 先生はベッドに膝をついて上がった。そして、ゆっくりと担当さんの横に座り込む。
「先生……?」
 彼が、怪訝そうな表情で先生を見上げた。
 次の瞬間──先生の両人差し指が、すっと彼の脇腹を突いた。
「ひっ!?」
 聞いたことのない、素っ頓狂な声が部屋に響き渡った。
 そう、二股男がされるのは、『くすぐり』なのだ。
「担当さん、こちょこちょ弱いんですねー」
 先生は満足そうに微笑むと、そのまま指先を動かし続けた。右、左、右。彼はその度、魚のように跳ねるのだ。
「べつにっ……くっ! ふふっ……!!」
 顔が紅潮し、必死に堪えようとしている。くすぐりに耐性がないのは明らかだった。
「なるほどなるほどー、こういうリアクションなんですねー」
 先生は観察するように、じっくりと彼の反応を見つめている。動けない状態でこちょこちょされる担当と、こちょこちょしながら凝視する漫画家──なんと奇妙な、そして異様な場面なのだろう。
 わたしは立ち尽くすことしかできない。どうすべきなのか、判断できない。
「思いっきり笑ってくれてもいいんですよ?」
「んんっ……これくらいっ、ふはっ……どうってこと……!」
「ふーん、じゃあここはどうでしょう」
 先生の指先が、今度は骨盤付近へ移動した。 親指でグリグリと、容赦なく押し込んでいく。
「ひぃ!? ふはっ……ぁ、あははっ!?」
 本格的になった責めに、抑えきれない笑い声が漏れ始めた。
「くふっ、んひひ……ひゃっはは!? ま、待っ……っはははははは!!」
 担当さんは、身をよじる。笑いが弾け、今にも溢れそうなほど瞳が潤む。拘束された両腕が、柵を引っ張るようにぴんと張りつめていた。
 その姿に、わたしは思わず生唾を呑んだ。
 だって──あんな顔、見たことない。いつもクールな面持ちで、困った時でさえ表情を崩さなかった彼が、こんなに無防備に笑っている。苦しそうに、それでいてどこか官能的で。
「やめるわけないじゃん? しっかり反省してよね」
 急に口調が変わったと思った矢先、先生がふいにこちらを向いた。
「さあ、レイカもやるのよ!」
 なりきっている……! ユズキになりきっている……!
 わたしの胸が、ドクンと大きく跳ねた。
 けれど、いくらくすぐりとはいえ、これはなんらかの罪に問われるのでは? 暴行? 監禁?
「ぶはっ!! んっははは!? ちょっ……もう……っははは!!」
「ここコリコリされるの好きみたいねー?」
「くひひひぃっ!! んんっ……ふっ、ふははは!! ひゃっはは!!」」
 彼の笑い声が、さらに切羽詰まったものになる。
 気づけば、足が一歩前に出ていた。
 頭を振る。だめだ、わたしがしっかりしないと。
 でも、これに満足したら先生は漫画を描き終える。原稿をゲットできた担当さんは嬉しい。お互いのためになるのでは……。
 導かれるようにベッドに上がる。目の前には、拘束された彼の両腕。その下には、無防備になっている腋。
「んはははっ!! まっ、まって……ぇへへへっ!!?」
 指先を、そっと彼の腋に這わせた。
「あははははっ!! くふっ、ふっはははは!! やめっ、てくださぃっひひひ!!」
 瞬間、声量が跳ね上がった。彼の身体がビクンと跳ねる。二人がかりは、やっぱりきついみたい。
 これは仕事のため。先生のため。担当さんのため。わたしは必死に、そうやって自分を納得させようとした。
「ねーえ? あなたが選ぶのはワタシでしょー?」
 先生が、わざとらしい猫なで声で囁いた。そして人差し指で、彼のおへそをほじっている。
「あっはははっ!! ユズキっ!! ユズキですぅ……ぅひひひひ!?」
 彼は背中を大きく反らしながら、絶叫した。身体が弓なりになる。涙がこぼれそうなほど、目尻が濡れている。
「ひどい……」
 思わず、ぽつりと呟いていた。
 その瞬間、わたしは気づいた。いつの間にか自分もレイカに憑依したようだ。
 わたしの指先が、自然と動く。腋の中央を、爪先でカリカリと引っ搔く。シャツが少し汗で濡れていて、指先に湿った感触が伝わってくる。体温も、はっきりと感じる。
「ぎゃっははは!! レイカっ、レイカです……! ふふ……っはははは!!」
 彼の声が、さらに甲高くなった。必死にわたしの名前──いや、レイカの名前を呼んでいる。
「あれあれー? そっちのほうが反応いいみたいねー?」
 先生の声が、楽しそうに響いた。
 堪えきれない笑みを顔いっぱいに浮かべながら、先生が四つん這いで近づいてくる。そして、彼の左腋に、十本の指をそっと置いた。
 それぞれの指が、まるで生き物のように動き出す。二の腕との境目を人差し指と中指で摘んだり、窪みから胸の付け根を五本の指先で往復したり。慣れさせない刺激を与えていた。
「むりむりむりぃっひひひひ!! そこっ、くははは!! うひひっ……ひゃははははは!!」
 担当さんの悲鳴が、一段と大きくなった。
 わたしも、自然と先生の真似をしていた。右腋を徹底的に責めてみる。片手は窪んだところを小刻みに、細かく動かす。もう片方の手は二の腕をモミモミと揉みほぐすように。
「ぃやっははは!! だめっ、わきだめ……ぐふっははははは!! あっははははっ!!」
 担当さんの足が、バタバタと激しくバタつく。シーツを蹴っている。けれど、手が縛られている以上、くすぐりは止まらない。逃げ場はない。
 彼の口の端から、ヨダレが一筋、垂れ落ちた。シーツに小さな染みを作る。
「ごめんなさいっ、ひゃっははは!? んへへへっ、ごめんなさいぃぃ!! ゆるしてくださいぃぃぃ!! んっははははっ!!」
 彼の声が、懇願するように響く。その姿に、普段の知性は感じられない。限界に近づいてるようにみえた。
 なんだろう、この感覚は。
 だって普通、こちょこちょされて顔真っ赤にして、許してもらおうと必死に謝る姿って、情けないでしょ? みっともないでしょ?
 でも、彼に対する気持ちに、不快なものはまったくなくて。むしろ、もっと見たい。もっとこの姿を。
 胸の奥が、ゾクゾクと疼くような、熱くなるような──。
「れいか、れいか」
 先生の声が、間近で聞こえた。
 はっ、と我に返る。隣を見ると、先生が眉を下げ、困惑したような顔をしていた。
「もう、終わりにしましょう」
 見下ろすと彼は息も絶え絶えで、完全に放心状態だった。目の焦点が合っていない。荒い呼吸で、胸を上下させている。
 わたしは慌てて、指を離した。まるで、火傷でもしたかのように。


 作業部屋に戻った後、まるで先ほどのことはなかったかのように、すべてが通常運転だった。
「……それで、納得できるシーンは描けそうですか?」
「いやー、実際やってみたらさ」
 先生は椅子の背もたれに身を預け、両手を後頭部に置くと平然と答えた。
「意外とリアリティのある絵描いてるって気づけたんだよねー。さすが私! ってことで、データ送りまーす」
 液晶タブレットを操作する指先が、軽やかに動く。
「…………ありがとうございます」
 なんとか絞り出したようなお礼だった。
 彼の拳が、小刻みに震えている。嬉しさではないことは明らかだった。怒りか、屈辱か、それとも疲労か。おそらく、その全てだろう。
 けれど、これはいつもの光景だ。普通じゃないのは──わたしの鼓動くらい。胸の奥で、まだドクドクと激しく打ち続けている。
「それでは、失礼します。また次回もお願いしますよ」
 担当さんの声は掠れていた。
「はいはーい。お気をつけてー」
 先生は手を振りながら、軽く返事をする。
 彼が玄関へと向かっていく。その足取りは、どこかふらついていた。気のせいではない、明らかに普段より不安定だ。
 わたしは、じっとしていられなかった。思わず、彼の後を追ってしまった。
「あ、あの……!」
 靴を履き終えた担当さんが、振り返った。小首を傾げて、こちらの言葉を待っている。その表情は、もう普段通りの落ち着いたものに戻りつつあった。
「す、すみませんでした。悪ふざけに、お付き合いしてもらって……」
 わたしは深く頭を下げた。沈黙が痛い。
 直後、くすくすと笑う声が聞こえた。
 顔を上げると──さっきとは違う、悪戯っぽく笑う彼がいた。
「いや、レイカさんも楽しんでたでしょ」
 その言葉に、わたしは返答に口ごもった。
 そのレイカは、キャラクターの……?
「あれ……お名前、麗花さんでしたよね?」
 担当さんが、恐る恐るといったように尋ねた。
「は、はい! 麗花です……!」
 慌てて答える。心臓が、また激しく跳ねた。
「あの人、変わってますから。お互い大変ですね」
「そ、そうですね……」
 わたしの名前、覚えていてくれたんだ──。
 さっきとは違う別のドキドキが、わたしの胸を、身体を、占領していく。頬が、じわりと熱くなる。
「あ、あの……また、来てください!」
 気づけば、そんな言葉が口から飛び出していた。
 担当さんは一瞬、目を丸くした。それから──優しく笑った。初めて見た表情だった。
「ええ。また、お邪魔します」
 彼はドアを開けて出ていった。
 その背中を見送った後も、しばらく動けずにいた。……ん? どこからか視線を感じる。
 振り返ると先生が、まるでどこかの家政婦のように作業部屋のドアの隙間から、ニマニマとこちらを見ていた。
「今度、取材させてね」
 先生の目が、キラキラと輝いている。
 絶対ろくなことにならない。わたしはそう確信した。
👏パチパチ

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