漫画家とアシスタントにくすぐられる担当さん チャイムの音が静かな室内に響いた。先生は液晶タブレットのペンを持つ手を止め、画面を見つめたまま、深いため息をついた。「来たか……」「わたし、出ます!」 わたしは椅子から勢いよく立ち上がり、スリッパの音を立てながら小走りで玄関へと向かった。途中、備え付けの全身鏡の前で立ち止まる。鏡に映る自分を上から下まで素早く確認。洋服はよし、乱れはない。前髪が少し乱れていたので、指先で整える。ゆっくり息を吸って、吐いて。それから、ドアノブに手をかけた。「こんにちはー」 できる限りの明るい声で、ドアを開ける。「お世話になります」 目の前には、紺のスーツに身を包んだ担当さんが立っていた。いつもの深々とした会釈。相変わらずの仏頂面だ。表情に柔らかさのかけらもない。まあ、理由は分かるけれど。「先生は?」 短い問いかけ。挨拶もそこそこに、本題だ。「奥に……」 わたしが言い終わる前に、彼はもう靴を脱ぎ、揃えている。「失礼します」 有無を言わせない勢いで、彼は廊下を抜け、作業部屋へと足を運んでいった。わたしは慌てて玄関の鍵をかけると、小走りで後を追った。「お世話になります」 部屋に入ると、二人は見つめ合い──いや、睨み合っていた。「わざわざすみませんねー、来てもらってー」「進捗はいかがですか?」 担当さんの声のトーンが、一段低くなる。「描けるときは描けるし、描けないときは描けませんねー」 先生は椅子に座ったまま、くるくると回転しながら答えた。その表情には、焦りのかけらもない。「それに、まだ締切まで三日あるかと思うのですが?」 先生がわざとらしく首を傾げる。無邪気な表情を装っているが、明らかに挑発だ。「ええ。問題なくご提出いただける先生なら、こちらもわざわざ出向くまででもないのですが」 担当さんが口角を上げた。笑みを作っているつもりなのだろう。けれど、その表情は笑顔とは程遠い。引きつった頬、冷たい目。どう見ても、怒りを必死に押し殺しているようにしか見えない。 無理もない。先生は締切当日に『探さないでください』と置き手紙を残して逃亡したり、担当さんが訪ねてきた途端に『持病が……』と口から血糊を吐いて倒れこんだり──過去の所業を思い出すだけで、わたしまで胃が痛くなる。信用性があるとは、到底言い難い。「……ちなみに、進捗のほうは?」「まー、ほぼできてるっちゃ、できてますよ? でもねー」 先生は椅子の背もたれに体重を預け、雑に結んでいる髪を指先で弄びながら、ニヤッと笑った。その笑みには、なぜだか余裕が滲んでいる。「メインシーンに納得がいかないんですよ。作者が納得できないものを、読者に読ませるわけにはいかない。そうでしょ?」 正論のように聞こえるが、これは完全に逃げ口上だ。 彼は無言で、じろりと先生を睨みつけた。その視線には、氷のような冷たさがある。わたしだったら、体が硬直して、言葉も出なくなりそうなものを先生はどこ吹く風。むしろニコニコしている。「……なぜ、納得がいかないのですか?」 担当さんの忍耐が限界に近づいているのが、空気でわかる。「リアリティがないんですよねー」 先生はタブレットを突きながら、のんびりと答えた。「誰か再現してくれたらなー、できれば男性がいいなー、でもそんな都合のいい人いないよなー」 言葉の端々に、わざとらしい棒読み感。チラリと、先生の視線が担当さんの方へ向けられる。 わたしは息を呑んだ。 まさか。「僭越ながら、私の仕事は担当編集です。サポートはさせていただきますが、先生個人のお遊びには……」「そういえばさー」 先生がこちらに目を向ける。突然のことで返事ができなかった私を置いて、スマホを操作し始めた。「面白い写真があんのよー、忘年会で担当さんがめいどふく……」 後半部分は上手く聞き取れなかった。「分かりました!! 引き受けましょう!!」 担当さんの声が、部屋中に響いたからだ。 わたしたちはゲストルームに移動した。もっと言えば、わたしの仮眠室である。狭い部屋に、シンプルなシングルベッドが一つ。「ここ、寝転がってもらえます?」 先生が指示を出す。普段はここで休憩をとっているのだが、まさかこんな使われ方をするとは。 大丈夫かな、変な匂いだと思われないかな。シミとかないよね。いや、というか彼の匂いがベッドに残ったり──。「どういうおつもりで……?」 担当さんの凄んだ声で、わたしははっと我に返った。 彼は自身が付けていたネクタイで、両手首を拘束されている。紺と銀のストライプ柄のネクタイが、ベッドの柵にしっかりと結ばれていた。両腕がまっすぐ上に伸びた状態──Iの字で、身動きがとれない。スーツ姿のまま拘束されている光景は、どこか非現実的だった。 わたしの意識が飛んでいた僅かな時間で、ここまでセッティングされていたなんて。「今回の話は、二股男に罰を下す話です」 先生は、いつもの軽い口調とは打って変わって、冷静に話を進めた。漫画を描くために必要なことに関しては、常にストイックな人なのだ。「……暴力、ですか?」 担当さんの声に、わずかな緊張が滲む。「まさかー。そんなことしたら警察沙汰でしょう」 先生はあっけらかんと笑った。 彼は、ほんの少しだけホッとした様子だった。肩の力が抜けるのが見える。いや、さすがの先生でもそんなバイオレンスなことはしない……とは言い切れないか。過去の奇行を思い出すと、確信が持てない。 今回のネームでは、本命のレイカと浮気相手のユズキが二股男に逆襲をする。その復讐の方法って──。「身体に傷はつけない。けど、相手に苦しい思いをさせられる」 先生はベッドに膝をついて上がった。そして、ゆっくりと担当さんの横に座り込む。「先生……?」 彼が、怪訝そうな表情で先生を見上げた。 次の瞬間──先生の両人差し指が、すっと彼の脇腹を突いた。「ひっ!?」 聞いたことのない、素っ頓狂な声が部屋に響き渡った。 そう、二股男がされるのは、『くすぐり』なのだ。「担当さん、こちょこちょ弱いんですねー」 先生は満足そうに微笑むと、そのまま指先を動かし続けた。右、左、右。彼はその度、魚のように跳ねるのだ。「べつにっ……くっ! ふふっ……!!」 顔が紅潮し、必死に堪えようとしている。くすぐりに耐性がないのは明らかだった。「なるほどなるほどー、こういうリアクションなんですねー」 先生は観察するように、じっくりと彼の反応を見つめている。動けない状態でこちょこちょされる担当と、こちょこちょしながら凝視する漫画家──なんと奇妙な、そして異様な場面なのだろう。 わたしは立ち尽くすことしかできない。どうすべきなのか、判断できない。「思いっきり笑ってくれてもいいんですよ?」「んんっ……これくらいっ、ふはっ……どうってこと……!」「ふーん、じゃあここはどうでしょう」 先生の指先が、今度は骨盤付近へ移動した。 親指でグリグリと、容赦なく押し込んでいく。「ひぃ!? ふはっ……ぁ、あははっ!?」 本格的になった責めに、抑えきれない笑い声が漏れ始めた。「くふっ、んひひ……ひゃっはは!? ま、待っ……っはははははは!!」 担当さんは、身をよじる。笑いが弾け、今にも溢れそうなほど瞳が潤む。拘束された両腕が、柵を引っ張るようにぴんと張りつめていた。 その姿に、わたしは思わず生唾を呑んだ。 だって──あんな顔、見たことない。いつもクールな面持ちで、困った時でさえ表情を崩さなかった彼が、こんなに無防備に笑っている。苦しそうに、それでいてどこか官能的で。「やめるわけないじゃん? しっかり反省してよね」 急に口調が変わったと思った矢先、先生がふいにこちらを向いた。「さあ、レイカもやるのよ!」 なりきっている……! ユズキになりきっている……! わたしの胸が、ドクンと大きく跳ねた。 けれど、いくらくすぐりとはいえ、これはなんらかの罪に問われるのでは? 暴行? 監禁?「ぶはっ!! んっははは!? ちょっ……もう……っははは!!」「ここコリコリされるの好きみたいねー?」「くひひひぃっ!! んんっ……ふっ、ふははは!! ひゃっはは!!」」 彼の笑い声が、さらに切羽詰まったものになる。 気づけば、足が一歩前に出ていた。 頭を振る。だめだ、わたしがしっかりしないと。 でも、これに満足したら先生は漫画を描き終える。原稿をゲットできた担当さんは嬉しい。お互いのためになるのでは……。 導かれるようにベッドに上がる。目の前には、拘束された彼の両腕。その下には、無防備になっている腋。「んはははっ!! まっ、まって……ぇへへへっ!!?」 指先を、そっと彼の腋に這わせた。「あははははっ!! くふっ、ふっはははは!! やめっ、てくださぃっひひひ!!」 瞬間、声量が跳ね上がった。彼の身体がビクンと跳ねる。二人がかりは、やっぱりきついみたい。 これは仕事のため。先生のため。担当さんのため。わたしは必死に、そうやって自分を納得させようとした。「ねーえ? あなたが選ぶのはワタシでしょー?」 先生が、わざとらしい猫なで声で囁いた。そして人差し指で、彼のおへそをほじっている。「あっはははっ!! ユズキっ!! ユズキですぅ……ぅひひひひ!?」 彼は背中を大きく反らしながら、絶叫した。身体が弓なりになる。涙がこぼれそうなほど、目尻が濡れている。「ひどい……」 思わず、ぽつりと呟いていた。 その瞬間、わたしは気づいた。いつの間にか自分もレイカに憑依したようだ。 わたしの指先が、自然と動く。腋の中央を、爪先でカリカリと引っ搔く。シャツが少し汗で濡れていて、指先に湿った感触が伝わってくる。体温も、はっきりと感じる。「ぎゃっははは!! レイカっ、レイカです……! ふふ……っはははは!!」 彼の声が、さらに甲高くなった。必死にわたしの名前──いや、レイカの名前を呼んでいる。「あれあれー? そっちのほうが反応いいみたいねー?」 先生の声が、楽しそうに響いた。 堪えきれない笑みを顔いっぱいに浮かべながら、先生が四つん這いで近づいてくる。そして、彼の左腋に、十本の指をそっと置いた。 それぞれの指が、まるで生き物のように動き出す。二の腕との境目を人差し指と中指で摘んだり、窪みから胸の付け根を五本の指先で往復したり。慣れさせない刺激を与えていた。「むりむりむりぃっひひひひ!! そこっ、くははは!! うひひっ……ひゃははははは!!」 担当さんの悲鳴が、一段と大きくなった。 わたしも、自然と先生の真似をしていた。右腋を徹底的に責めてみる。片手は窪んだところを小刻みに、細かく動かす。もう片方の手は二の腕をモミモミと揉みほぐすように。「ぃやっははは!! だめっ、わきだめ……ぐふっははははは!! あっははははっ!!」 担当さんの足が、バタバタと激しくバタつく。シーツを蹴っている。けれど、手が縛られている以上、くすぐりは止まらない。逃げ場はない。 彼の口の端から、ヨダレが一筋、垂れ落ちた。シーツに小さな染みを作る。「ごめんなさいっ、ひゃっははは!? んへへへっ、ごめんなさいぃぃ!! ゆるしてくださいぃぃぃ!! んっははははっ!!」 彼の声が、懇願するように響く。その姿に、普段の知性は感じられない。限界に近づいてるようにみえた。 なんだろう、この感覚は。 だって普通、こちょこちょされて顔真っ赤にして、許してもらおうと必死に謝る姿って、情けないでしょ? みっともないでしょ? でも、彼に対する気持ちに、不快なものはまったくなくて。むしろ、もっと見たい。もっとこの姿を。 胸の奥が、ゾクゾクと疼くような、熱くなるような──。「れいか、れいか」 先生の声が、間近で聞こえた。 はっ、と我に返る。隣を見ると、先生が眉を下げ、困惑したような顔をしていた。「もう、終わりにしましょう」 見下ろすと彼は息も絶え絶えで、完全に放心状態だった。目の焦点が合っていない。荒い呼吸で、胸を上下させている。 わたしは慌てて、指を離した。まるで、火傷でもしたかのように。 作業部屋に戻った後、まるで先ほどのことはなかったかのように、すべてが通常運転だった。「……それで、納得できるシーンは描けそうですか?」「いやー、実際やってみたらさ」 先生は椅子の背もたれに身を預け、両手を後頭部に置くと平然と答えた。「意外とリアリティのある絵描いてるって気づけたんだよねー。さすが私! ってことで、データ送りまーす」 液晶タブレットを操作する指先が、軽やかに動く。「…………ありがとうございます」 なんとか絞り出したようなお礼だった。 彼の拳が、小刻みに震えている。嬉しさではないことは明らかだった。怒りか、屈辱か、それとも疲労か。おそらく、その全てだろう。 けれど、これはいつもの光景だ。普通じゃないのは──わたしの鼓動くらい。胸の奥で、まだドクドクと激しく打ち続けている。「それでは、失礼します。また次回もお願いしますよ」 担当さんの声は掠れていた。「はいはーい。お気をつけてー」 先生は手を振りながら、軽く返事をする。 彼が玄関へと向かっていく。その足取りは、どこかふらついていた。気のせいではない、明らかに普段より不安定だ。 わたしは、じっとしていられなかった。思わず、彼の後を追ってしまった。「あ、あの……!」 靴を履き終えた担当さんが、振り返った。小首を傾げて、こちらの言葉を待っている。その表情は、もう普段通りの落ち着いたものに戻りつつあった。「す、すみませんでした。悪ふざけに、お付き合いしてもらって……」 わたしは深く頭を下げた。沈黙が痛い。 直後、くすくすと笑う声が聞こえた。 顔を上げると──さっきとは違う、悪戯っぽく笑う彼がいた。「いや、レイカさんも楽しんでたでしょ」 その言葉に、わたしは返答に口ごもった。 そのレイカは、キャラクターの……?「あれ……お名前、麗花さんでしたよね?」 担当さんが、恐る恐るといったように尋ねた。「は、はい! 麗花です……!」 慌てて答える。心臓が、また激しく跳ねた。「あの人、変わってますから。お互い大変ですね」「そ、そうですね……」 わたしの名前、覚えていてくれたんだ──。 さっきとは違う別のドキドキが、わたしの胸を、身体を、占領していく。頬が、じわりと熱くなる。「あ、あの……また、来てください!」 気づけば、そんな言葉が口から飛び出していた。 担当さんは一瞬、目を丸くした。それから──優しく笑った。初めて見た表情だった。「ええ。また、お邪魔します」 彼はドアを開けて出ていった。 その背中を見送った後も、しばらく動けずにいた。……ん? どこからか視線を感じる。 振り返ると先生が、まるでどこかの家政婦のように作業部屋のドアの隙間から、ニマニマとこちらを見ていた。「今度、取材させてね」 先生の目が、キラキラと輝いている。 絶対ろくなことにならない。わたしはそう確信した。 👏パチパチ 2025.11.27(Thu) 単発
漫画家とアシスタントにくすぐられる担当さん
チャイムの音が静かな室内に響いた。先生は液晶タブレットのペンを持つ手を止め、画面を見つめたまま、深いため息をついた。
「来たか……」
「わたし、出ます!」
わたしは椅子から勢いよく立ち上がり、スリッパの音を立てながら小走りで玄関へと向かった。途中、備え付けの全身鏡の前で立ち止まる。鏡に映る自分を上から下まで素早く確認。洋服はよし、乱れはない。前髪が少し乱れていたので、指先で整える。ゆっくり息を吸って、吐いて。それから、ドアノブに手をかけた。
「こんにちはー」
できる限りの明るい声で、ドアを開ける。
「お世話になります」
目の前には、紺のスーツに身を包んだ担当さんが立っていた。いつもの深々とした会釈。相変わらずの仏頂面だ。表情に柔らかさのかけらもない。まあ、理由は分かるけれど。
「先生は?」
短い問いかけ。挨拶もそこそこに、本題だ。
「奥に……」
わたしが言い終わる前に、彼はもう靴を脱ぎ、揃えている。
「失礼します」
有無を言わせない勢いで、彼は廊下を抜け、作業部屋へと足を運んでいった。わたしは慌てて玄関の鍵をかけると、小走りで後を追った。
「お世話になります」
部屋に入ると、二人は見つめ合い──いや、睨み合っていた。
「わざわざすみませんねー、来てもらってー」
「進捗はいかがですか?」
担当さんの声のトーンが、一段低くなる。
「描けるときは描けるし、描けないときは描けませんねー」
先生は椅子に座ったまま、くるくると回転しながら答えた。その表情には、焦りのかけらもない。
「それに、まだ締切まで三日あるかと思うのですが?」
先生がわざとらしく首を傾げる。無邪気な表情を装っているが、明らかに挑発だ。
「ええ。問題なくご提出いただける先生なら、こちらもわざわざ出向くまででもないのですが」
担当さんが口角を上げた。笑みを作っているつもりなのだろう。けれど、その表情は笑顔とは程遠い。引きつった頬、冷たい目。どう見ても、怒りを必死に押し殺しているようにしか見えない。
無理もない。先生は締切当日に『探さないでください』と置き手紙を残して逃亡したり、担当さんが訪ねてきた途端に『持病が……』と口から血糊を吐いて倒れこんだり──過去の所業を思い出すだけで、わたしまで胃が痛くなる。信用性があるとは、到底言い難い。
「……ちなみに、進捗のほうは?」
「まー、ほぼできてるっちゃ、できてますよ? でもねー」
先生は椅子の背もたれに体重を預け、雑に結んでいる髪を指先で弄びながら、ニヤッと笑った。その笑みには、なぜだか余裕が滲んでいる。
「メインシーンに納得がいかないんですよ。作者が納得できないものを、読者に読ませるわけにはいかない。そうでしょ?」
正論のように聞こえるが、これは完全に逃げ口上だ。
彼は無言で、じろりと先生を睨みつけた。その視線には、氷のような冷たさがある。わたしだったら、体が硬直して、言葉も出なくなりそうなものを先生はどこ吹く風。むしろニコニコしている。
「……なぜ、納得がいかないのですか?」
担当さんの忍耐が限界に近づいているのが、空気でわかる。
「リアリティがないんですよねー」
先生はタブレットを突きながら、のんびりと答えた。
「誰か再現してくれたらなー、できれば男性がいいなー、でもそんな都合のいい人いないよなー」
言葉の端々に、わざとらしい棒読み感。チラリと、先生の視線が担当さんの方へ向けられる。
わたしは息を呑んだ。
まさか。
「僭越ながら、私の仕事は担当編集です。サポートはさせていただきますが、先生個人のお遊びには……」
「そういえばさー」
先生がこちらに目を向ける。突然のことで返事ができなかった私を置いて、スマホを操作し始めた。
「面白い写真があんのよー、忘年会で担当さんがめいどふく……」
後半部分は上手く聞き取れなかった。
「分かりました!! 引き受けましょう!!」
担当さんの声が、部屋中に響いたからだ。
わたしたちはゲストルームに移動した。もっと言えば、わたしの仮眠室である。狭い部屋に、シンプルなシングルベッドが一つ。
「ここ、寝転がってもらえます?」
先生が指示を出す。普段はここで休憩をとっているのだが、まさかこんな使われ方をするとは。
大丈夫かな、変な匂いだと思われないかな。シミとかないよね。いや、というか彼の匂いがベッドに残ったり──。
「どういうおつもりで……?」
担当さんの凄んだ声で、わたしははっと我に返った。
彼は自身が付けていたネクタイで、両手首を拘束されている。紺と銀のストライプ柄のネクタイが、ベッドの柵にしっかりと結ばれていた。両腕がまっすぐ上に伸びた状態──Iの字で、身動きがとれない。スーツ姿のまま拘束されている光景は、どこか非現実的だった。
わたしの意識が飛んでいた僅かな時間で、ここまでセッティングされていたなんて。
「今回の話は、二股男に罰を下す話です」
先生は、いつもの軽い口調とは打って変わって、冷静に話を進めた。漫画を描くために必要なことに関しては、常にストイックな人なのだ。
「……暴力、ですか?」
担当さんの声に、わずかな緊張が滲む。
「まさかー。そんなことしたら警察沙汰でしょう」
先生はあっけらかんと笑った。
彼は、ほんの少しだけホッとした様子だった。肩の力が抜けるのが見える。いや、さすがの先生でもそんなバイオレンスなことはしない……とは言い切れないか。過去の奇行を思い出すと、確信が持てない。
今回のネームでは、本命のレイカと浮気相手のユズキが二股男に逆襲をする。その復讐の方法って──。
「身体に傷はつけない。けど、相手に苦しい思いをさせられる」
先生はベッドに膝をついて上がった。そして、ゆっくりと担当さんの横に座り込む。
「先生……?」
彼が、怪訝そうな表情で先生を見上げた。
次の瞬間──先生の両人差し指が、すっと彼の脇腹を突いた。
「ひっ!?」
聞いたことのない、素っ頓狂な声が部屋に響き渡った。
そう、二股男がされるのは、『くすぐり』なのだ。
「担当さん、こちょこちょ弱いんですねー」
先生は満足そうに微笑むと、そのまま指先を動かし続けた。右、左、右。彼はその度、魚のように跳ねるのだ。
「べつにっ……くっ! ふふっ……!!」
顔が紅潮し、必死に堪えようとしている。くすぐりに耐性がないのは明らかだった。
「なるほどなるほどー、こういうリアクションなんですねー」
先生は観察するように、じっくりと彼の反応を見つめている。動けない状態でこちょこちょされる担当と、こちょこちょしながら凝視する漫画家──なんと奇妙な、そして異様な場面なのだろう。
わたしは立ち尽くすことしかできない。どうすべきなのか、判断できない。
「思いっきり笑ってくれてもいいんですよ?」
「んんっ……これくらいっ、ふはっ……どうってこと……!」
「ふーん、じゃあここはどうでしょう」
先生の指先が、今度は骨盤付近へ移動した。 親指でグリグリと、容赦なく押し込んでいく。
「ひぃ!? ふはっ……ぁ、あははっ!?」
本格的になった責めに、抑えきれない笑い声が漏れ始めた。
「くふっ、んひひ……ひゃっはは!? ま、待っ……っはははははは!!」
担当さんは、身をよじる。笑いが弾け、今にも溢れそうなほど瞳が潤む。拘束された両腕が、柵を引っ張るようにぴんと張りつめていた。
その姿に、わたしは思わず生唾を呑んだ。
だって──あんな顔、見たことない。いつもクールな面持ちで、困った時でさえ表情を崩さなかった彼が、こんなに無防備に笑っている。苦しそうに、それでいてどこか官能的で。
「やめるわけないじゃん? しっかり反省してよね」
急に口調が変わったと思った矢先、先生がふいにこちらを向いた。
「さあ、レイカもやるのよ!」
なりきっている……! ユズキになりきっている……!
わたしの胸が、ドクンと大きく跳ねた。
けれど、いくらくすぐりとはいえ、これはなんらかの罪に問われるのでは? 暴行? 監禁?
「ぶはっ!! んっははは!? ちょっ……もう……っははは!!」
「ここコリコリされるの好きみたいねー?」
「くひひひぃっ!! んんっ……ふっ、ふははは!! ひゃっはは!!」」
彼の笑い声が、さらに切羽詰まったものになる。
気づけば、足が一歩前に出ていた。
頭を振る。だめだ、わたしがしっかりしないと。
でも、これに満足したら先生は漫画を描き終える。原稿をゲットできた担当さんは嬉しい。お互いのためになるのでは……。
導かれるようにベッドに上がる。目の前には、拘束された彼の両腕。その下には、無防備になっている腋。
「んはははっ!! まっ、まって……ぇへへへっ!!?」
指先を、そっと彼の腋に這わせた。
「あははははっ!! くふっ、ふっはははは!! やめっ、てくださぃっひひひ!!」
瞬間、声量が跳ね上がった。彼の身体がビクンと跳ねる。二人がかりは、やっぱりきついみたい。
これは仕事のため。先生のため。担当さんのため。わたしは必死に、そうやって自分を納得させようとした。
「ねーえ? あなたが選ぶのはワタシでしょー?」
先生が、わざとらしい猫なで声で囁いた。そして人差し指で、彼のおへそをほじっている。
「あっはははっ!! ユズキっ!! ユズキですぅ……ぅひひひひ!?」
彼は背中を大きく反らしながら、絶叫した。身体が弓なりになる。涙がこぼれそうなほど、目尻が濡れている。
「ひどい……」
思わず、ぽつりと呟いていた。
その瞬間、わたしは気づいた。いつの間にか自分もレイカに憑依したようだ。
わたしの指先が、自然と動く。腋の中央を、爪先でカリカリと引っ搔く。シャツが少し汗で濡れていて、指先に湿った感触が伝わってくる。体温も、はっきりと感じる。
「ぎゃっははは!! レイカっ、レイカです……! ふふ……っはははは!!」
彼の声が、さらに甲高くなった。必死にわたしの名前──いや、レイカの名前を呼んでいる。
「あれあれー? そっちのほうが反応いいみたいねー?」
先生の声が、楽しそうに響いた。
堪えきれない笑みを顔いっぱいに浮かべながら、先生が四つん這いで近づいてくる。そして、彼の左腋に、十本の指をそっと置いた。
それぞれの指が、まるで生き物のように動き出す。二の腕との境目を人差し指と中指で摘んだり、窪みから胸の付け根を五本の指先で往復したり。慣れさせない刺激を与えていた。
「むりむりむりぃっひひひひ!! そこっ、くははは!! うひひっ……ひゃははははは!!」
担当さんの悲鳴が、一段と大きくなった。
わたしも、自然と先生の真似をしていた。右腋を徹底的に責めてみる。片手は窪んだところを小刻みに、細かく動かす。もう片方の手は二の腕をモミモミと揉みほぐすように。
「ぃやっははは!! だめっ、わきだめ……ぐふっははははは!! あっははははっ!!」
担当さんの足が、バタバタと激しくバタつく。シーツを蹴っている。けれど、手が縛られている以上、くすぐりは止まらない。逃げ場はない。
彼の口の端から、ヨダレが一筋、垂れ落ちた。シーツに小さな染みを作る。
「ごめんなさいっ、ひゃっははは!? んへへへっ、ごめんなさいぃぃ!! ゆるしてくださいぃぃぃ!! んっははははっ!!」
彼の声が、懇願するように響く。その姿に、普段の知性は感じられない。限界に近づいてるようにみえた。
なんだろう、この感覚は。
だって普通、こちょこちょされて顔真っ赤にして、許してもらおうと必死に謝る姿って、情けないでしょ? みっともないでしょ?
でも、彼に対する気持ちに、不快なものはまったくなくて。むしろ、もっと見たい。もっとこの姿を。
胸の奥が、ゾクゾクと疼くような、熱くなるような──。
「れいか、れいか」
先生の声が、間近で聞こえた。
はっ、と我に返る。隣を見ると、先生が眉を下げ、困惑したような顔をしていた。
「もう、終わりにしましょう」
見下ろすと彼は息も絶え絶えで、完全に放心状態だった。目の焦点が合っていない。荒い呼吸で、胸を上下させている。
わたしは慌てて、指を離した。まるで、火傷でもしたかのように。
作業部屋に戻った後、まるで先ほどのことはなかったかのように、すべてが通常運転だった。
「……それで、納得できるシーンは描けそうですか?」
「いやー、実際やってみたらさ」
先生は椅子の背もたれに身を預け、両手を後頭部に置くと平然と答えた。
「意外とリアリティのある絵描いてるって気づけたんだよねー。さすが私! ってことで、データ送りまーす」
液晶タブレットを操作する指先が、軽やかに動く。
「…………ありがとうございます」
なんとか絞り出したようなお礼だった。
彼の拳が、小刻みに震えている。嬉しさではないことは明らかだった。怒りか、屈辱か、それとも疲労か。おそらく、その全てだろう。
けれど、これはいつもの光景だ。普通じゃないのは──わたしの鼓動くらい。胸の奥で、まだドクドクと激しく打ち続けている。
「それでは、失礼します。また次回もお願いしますよ」
担当さんの声は掠れていた。
「はいはーい。お気をつけてー」
先生は手を振りながら、軽く返事をする。
彼が玄関へと向かっていく。その足取りは、どこかふらついていた。気のせいではない、明らかに普段より不安定だ。
わたしは、じっとしていられなかった。思わず、彼の後を追ってしまった。
「あ、あの……!」
靴を履き終えた担当さんが、振り返った。小首を傾げて、こちらの言葉を待っている。その表情は、もう普段通りの落ち着いたものに戻りつつあった。
「す、すみませんでした。悪ふざけに、お付き合いしてもらって……」
わたしは深く頭を下げた。沈黙が痛い。
直後、くすくすと笑う声が聞こえた。
顔を上げると──さっきとは違う、悪戯っぽく笑う彼がいた。
「いや、レイカさんも楽しんでたでしょ」
その言葉に、わたしは返答に口ごもった。
そのレイカは、キャラクターの……?
「あれ……お名前、麗花さんでしたよね?」
担当さんが、恐る恐るといったように尋ねた。
「は、はい! 麗花です……!」
慌てて答える。心臓が、また激しく跳ねた。
「あの人、変わってますから。お互い大変ですね」
「そ、そうですね……」
わたしの名前、覚えていてくれたんだ──。
さっきとは違う別のドキドキが、わたしの胸を、身体を、占領していく。頬が、じわりと熱くなる。
「あ、あの……また、来てください!」
気づけば、そんな言葉が口から飛び出していた。
担当さんは一瞬、目を丸くした。それから──優しく笑った。初めて見た表情だった。
「ええ。また、お邪魔します」
彼はドアを開けて出ていった。
その背中を見送った後も、しばらく動けずにいた。……ん? どこからか視線を感じる。
振り返ると先生が、まるでどこかの家政婦のように作業部屋のドアの隙間から、ニマニマとこちらを見ていた。
「今度、取材させてね」
先生の目が、キラキラと輝いている。
絶対ろくなことにならない。わたしはそう確信した。